京街道を歩く(その2)・鳥飼大橋~枚方宿

大津市追分町にある東海道との分岐点から、京都の伏見、淀、大阪の枚方、守口を通って、大阪市内の高麗橋へと続く50km強の街道。東海道五十三次と、分岐点からの道中にある伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿とを合わせて東海道五十七次と呼ばれていますが、この京ではなく大坂方の枝線部分が「京街道」と呼ばれています(大阪方面への道を「大坂街道」、京都方面への道を「京街道」というそうです)。
その京街道の始点、高麗橋から京都方面へと歩いてみようと、歩き始めたのが昨年6月のこと。
第1回目は、高麗橋から守口宿を経由して、鳥飼大橋の袂まで。
梅雨明けの6月下旬は、真夏の暑さになっていたので、鳥飼大橋から先、炎天下の淀川堤防を歩くのは避けたくて、しばらく先までお預けにしていたんですが、年末も押し迫った12月下旬に、続編(第2回目)を敢行しました。
鳥飼大橋~淀川堤防

前回、京街道旅を中断したのが、大阪メトロ谷町線と大阪モノレールの大日駅から北へ800mほどのところにある鳥飼大橋のたもと。
大阪モノレールの軌道の下あたりです。

ここから京街道を再開。
まずは、この坂道を上がって、淀川の堤防に出ます。
ここから、しばらく、6kmほど、堤防の上を歩きます。
…。
ほんとに京街道を歩いてるんでしょうか。。
という、「あれ?今日はどこを歩いてるんだっけ?」感にしばらく包まれます。
12月下旬とはいえ、割合と暖かく、風のない日だったので救われましたが、北風吹く寒い中を歩いていたら、嫌になったかも知れませんね。それほど、街道感のない(目的を忘れさせられる)道です。
左手には淀川、といっても100m以上ある広い河川敷があるので、水辺のすぐそば、という感じではありません。右手には、寝屋川バイパスの高架が続いています。
しばらく歩くと、鳥飼仁和寺大橋の斜張橋が見えてきます。

京街道のルートは、「歴史街道」(歴史街道推進協議会)が発行しているウォーキングマップを参考にさせて頂いているのですが、そのマップには、鳥飼仁和寺大橋までの間に、幾つかの碑があるように書かれています。
佐太樋跡、佐太の渡し跡、佐太陣屋跡、間の宿佐太銘鈑碑等々。ただ、それらすべてがこの堤防から離れていて、国道1号線(バイパス)沿い、もしくは南東側なので淀川から離れる側にあるんです。
碑はともかく、陣屋跡などがあることを考えれば、そのあたりが街道なんじゃないのかな?なんて思ってしまうんですが、そうでもないんですかね。
結局、それらの碑には立ち寄らず、堤防の上を歩きました。
鳥飼仁和寺大橋の下をくぐり、さらに進みます。

鳩もひなたぼっこが好きなんでしょうか。
というような写真しか撮れない道をひたすら歩きます。
堤防の上を歩いていると、淀川新橋にぶつかりますので、直前の階段で一旦河川敷側に下りて、橋をくぐってから再び階段を上って堤防へと戻ります。
このあたりまで来ると、淀川沿いの堤防区間の7割くらいを超えたことになるでしょうか。ここまで、京街道っぽい風景を見ることは無かったんですが、少し進むと、

このような建物群が見えてきますので、やっぱり街道沿いなのかな、と思わせてくれます。
そこから少し進むと、「茨田堤」碑があります。

前回、守口宿あたりで見た、豊臣秀吉が整備させた文禄堤と同じようなものかと思いきや、こちらはそれよりもはるか昔の『日本書紀』に由来するものだそうです。その中に記載されている、茨田連袗子(まんだむらじころものこ)の築造の話が碑の横にある石板に記載されています。
そうなんです。「茨田」は、大阪にある地名では「まった」と読むのが一般的かと思うのですが、ここでは「まんだ」と読むのだそう。
いずれにしても、豊臣時代の元禄堤の整備から京街道が起こってますので、仁徳天皇時代のこの茨田堤は、今回の京街道のテーマとは直接は関係の無いもの、ということですね。
さらに上流側に進むと、右手にこのような石柱が見えてきます。

写真で見ても刻まれた文字が判読できないんですが、これは、「赤井堤祈念碑」と呼ばれるもので、明治18年6月に発生した淀川堤防決壊による大洪水を今に伝える伝承碑だそうです。
ちなみに、この碑が立つのが、寝屋川市と枚方市の市境(の寝屋川市側)のようです。そういえば、守口市から寝屋川市の境は、まったく気づいてなかったですね。鳥飼大橋と、次の鳥飼仁和寺大橋の間に市境があったそうです。
少し歩くと、右手前方に観覧車が見えてきます。

撮影は望遠なので、そこまで近くは無いんですが、枚方に近付いてきたことを感じさせます。(関西以外の方には馴染みが無いかもしれませんが、「ひらかたパーク(略称:ひらパー)」という超メジャーな遊園地があります)
今日の目的地が枚方宿ですから、ゴールが近付いてきた、という感じです。
実際、3分の2くらいまで歩いてきたんですが、ほぼ堤防の上なので、これといって京街道を感じられるところが無いのがちょっと残念なところ。

堤防上の道はずっと先まで続くんですが、この右へと下りる坂が京街道、とのこと。大きな鉄塔が目印ですね。
淀川堤防~枚方宿(西見附)

堤防上の道から下りたものの、ここからおよそ500mほどは左手に堤防が続きます。右手が街道っぽい風景かというと、そこまでの歴史では無いんですか、屋根瓦の立派なお宅が並んでいます。
道なりに堤防から離れていくと、このような趣のある建物が、ぽつりぽつりと見えてきます。

道路も直線ではなく、右へ左へと緩くカーブが続いているのが、街道っぽいですね。

この隣(写真では、蔵のすぐ奥側)に、「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」があります。
敷地に入らず、写真だけ撮らせて頂いたんですが、真ん中の台座の上にある丸っこい石が「腰掛石」だそうです。蓮如上人が腰かけて説法した、という石だそうですね。

ここから、北に200mほど歩いたところにあるのが、光善寺です。
その蓮如上人が開祖、というお寺です。

光善寺というと、京阪電鉄の駅名でも有名ですが、実際にその由来となった光善寺が京街道沿いにあったことは知りませんでした。
非常に歴史のある寺ではありますが、ちょっと時代を感じてしまうのが、左側にチラッと写っている貼り紙。
「今年も近隣に配慮し除夜の鐘は中止と致します」
これが世相なんですかね。
クランク(というか丁字路)を2回曲がって、またカーブの続く街道を歩きます。
「出口ふれあい公園」のそばを流れる川沿いに街道が続くんですが、「出口」とはこのあたりの地名です。光善寺も、「真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺」が正式な名前のようです。
左手にスポーツセンターのテニスコートが見える丁字路にぶつかるので、右に曲がってファミリーマートの信号を左へと曲がります。その次の丁字路も右に曲がるんですが、このあたりは新しめのおうちも多いので、区画整理された道なのかもしれないですね。
ただ、この丁字路から次の枚方大橋南詰までの区間は、弓なりの線形ですので、建物こそ近代的ですが、街道っぽさを残しているような気もします。

枚方大橋南詰の交差点では、手前(左折後なので写真左)の側道を歩きます。
そのまままっすぐ歩いていきそうになってしまいますが、この高架橋をくぐる歩行者用の道へと入ります。

実は、このあたり、先述の歴史街道ウォーキングマップでは、どの道が正解なのか判然としないんですが、我々はこの道を進みます。
で、ここを曲がって効果をくぐった先にあるのが、「水と歴史のふれあい広場」。

ここで、この広場(公園)の方に入ります。そのまま道路をくぐってしまうと、道が判りにくくなります(ウォーキングマップでは、その道を指しているようにも見えます)。
が、こちらを選んだのは、面白みがあるから、ですね。

水面廻廊と名付けられた公園が整備され、このように三十石船もモニュメントとして置かれています。季節が良くなかったのか、干上がってしまってるのがちょっと残念なところ。
京街道にも縁のある公園のような気がします。
このまま用水路沿いの散策を楽しみたいところですが、この右側の階段を上ります。

なんだかアパートの外階段のような気がしなくもないですが、公共の道です。
※写真奥に見える、公園を横切る橋の向こうまで歩きますので、この公園の先にある階段で上っても良かったかもしれません。
水面廻廊を背にして少し歩くのですが、ここは弓なりの道とはいえ、新興住宅地っぽいところですので、街道の雰囲気は、あまりありません。(1軒だけ、蔵を持つ建物はありました)
川を渡った先にある丁字路を右に曲がると、「西見附」の案内板が見えてきます。

ここから、枚方宿になります。
枚方宿(西見附)~枚方宿(東見附)

枚方宿は、東西に約1.5kmからなる宿場町で、東海道五十七次では56番目(57番目は守口宿)となります。
1.5kmに及ぶのは、宿場町としては大きい方では無いでしょうか。
ここから、看板にある「枚方宿鍵屋資料館」の矢印の方が京街道となるんですが、ちょっと寄り道して、枚方船着場へ行ってみます。車通りの多い府道13号線を横切って、河川敷に下ります。

実際にこの場で三十石船や「くらわんか舟」が発着していたわけでは無さそうですが、淀川の流れを見ながら、船が行き交う活況のある姿を想像すると面白いかと思います。
河川敷から枚方宿西見附に戻る途中、目にしたのがこちら。

郵便屋の渡し跡です。郵便物を、淀川対岸にある国鉄高槻駅まで運ぶのに、ここの渡しを利用した、ということですから、江戸時代よりは少し後の話になるかと思いますが、枚方大橋が出来る昭和初期まで郵便輸送に渡しを利用していたそうです。
渡し跡の碑ではあるんですが、実際の渡し場は、ここから上流に570mのところにあった、と、横にある石板に刻まれています。
街道に戻り、歩を進めます。
100mも行かないところに、鍵屋資料館があります。

風情のあるたたずまいですね。
今から200年以上前の1800年代初頭、文化年間の建築物だそうです。
この他にも、相当に歴史を感じる建物が、この通りには多く見られます。

守口宿の現在の様子とは比じゃない感じですね。
さらに歩くと道標が現れます。

枚方船番所跡という気になる文言ではありますが、そちらへは曲がらずに、まっすぐ歩くのが京街道のようですので、先へと向かいます。

そのまままっすぐ行くと京阪電鉄の踏切ですが、その手前に、別の道標が現れます。
左手が枚方宿 本陣跡とありますので、ここで左手に曲がります。
正面に浄念寺があり、その敷地を避けるようにクランクとなっている形状が街道っぽさを感じます。
浄念寺から歴史ある建物を眺めつつ、東へ200mほど進んだところにあるのが、三ツ矢公園。
その公園の一角に、「東海道 枚方宿 本陣跡」の碑があります。

参勤交代の大名が宿泊した施設ですが、鳥羽・伏見の戦の後、明治天皇の大坂行幸で、天皇の休息所としても使用されたそうです。建物自体は、明治期に取り壊されているようですね。
ここから100mほど進んだところには、「枚方宿高札場跡」の碑があります。
趣のある建物を眺めつつ進むと、左手に「妙見宮常夜灯石灯籠」があります。
歴史的な建造物が残る中を東へと進むと、いきなり近代的なスペースに出ます。

右手が岡本町公園、左手が枚方ビオルネというショッピングモールです。
それでも「京街道」と書かれた柱が立っているのがいいですね。
この道をまっすぐ歩き、枚方駅手前の横断歩道を渡ると、二つの道標が見えてきます。
右手にあるのがこちら。

東に向かって正面にあるのが、上に「左」「右」と下に「道」の字。これは判るんですが。。
この交差点を左に曲がれば京都なので、「左」の下は「京」の字ですね。
その左面は、北から来る人向けなので、右(我々が来た方向)が「大坂みち」ですね。
それだけ判れば十分なんですが、気になって後で調べてみると、前面にある「右」の下に書かれているのが、「くらじたき」で、交野市の東倉治にある「源氏の滝」のことだそうです。「左」の下は、「京 六り(里) やわた ニり(里)」だそう。くらじたきはともかく、やわた(八幡)は読めないですわ。。(実際には、「やわた」ではなく、「也王多」と書かれていて、これで「やわた」と読ませるそうです)
そのはす向かいに立つのがこちら。

左の矢印が京都方向。今日のゴール、枚方宿の東見附の文字が見えます。
宗左の辻、とは、江戸時代に製油業を営んでいた角野宗左が住んでいたところにある辻(まさにここ)が、京街道と磐船街道の分岐点であることを示しています。先ほどの倉治の滝が磐船街道を往ったところにある、ということですね。
ここを左に曲がり、京街道を歩むと、100mほどで枚方橋跡があります。

写真は、行き過ぎて振り返ったところですので、向こう側が大坂方となります。写真上の方に小さく見える石柱には「ひらかたはし」とひらがなで書かれています。ということは、この間にある歩道が、暗渠になってるんですかね。
ここから、京街道は右へと弓なりに曲がり、東へと進みます。
しばらく進み前方突き当りに堤防が見えてきたときに、右手に見えるのが、こちら。

枚方宿の問屋役人、小野平右衛門の家だそうです。江戸時代末期の建物だそうで、登録有形文化財に指定されていますね。
というわけで、本日のゴール、枚方宿の東見附です。

枚方宿の東の端になります。
次回は、ここから京に向かって、淀宿あたりまで行ってみたいですね。
実は、宗左の辻あたりが枚方駅にも近く、そこを今日のゴールとするのがベストだったんですが、歩きたい距離に、少し足りなかったのでもうちょっとだけ延長した、という次第です。
そんなわけで、昨年末の京街道徒歩旅の第2弾が2026年最初の記事となりました。
一昨年の「富士」、昨年の「鷹」に続いて新年らしく縁起物で、とも考えたんですが特にネタも無く、ならば、今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の兄、豊臣秀吉が築いた文禄堤から成り立った京街道の話にしよう、と決めました。なので、淀、伏見へは、やっぱり今年中(放送期間中)に到達したいですね。















