京街道を歩く(その1)・高麗橋~鳥飼大橋

東海道五十七次と京街道

昨年(2024年)11月上旬に3夜連続で放送されたNHKの「ブラタモリ」。レギュラー放送が3月で終了しての特番だったんですが、テーマは「東海道"五十七次"の旅」。

東海道五十七次とは、あまり聞かない表現かも知れませんが、大津市追分町にある東海道との分岐点から、京都の伏見・淀、大阪の枚方、守口を通って、大阪市内の高麗橋へと続く50km強の街道で、東海道五十三次に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を加えた東海道五十七次としても知られるルートになっています。

この部分(正確には東海道と重複する箇所を含めて大津宿までを指すのでしょうか)が「京街道」とも呼ばれています。

一年前の5月。京都の三条大橋から大津市の膳所のあたりまで、東海道を江戸方向に向かって歩きました。

このときは、大津市にある石山寺への参詣が主の目的でしたが、東海道を歩いたのが面白かったのと、「ブラタモリ」でも放送されたこともあって、

このときに通った追分から、大阪・高麗橋まで、この街道を歩いてみたい、と考えていたんです。

もちろん、1日で歩き通すつもりはなく、数回に分けて歩きたいな、と。

で、いろいろあって実行できるのが6月下旬の28日となったんですが、異常気象と言えるのか6月なのに梅雨が明けて、炎天下となることが予測される天候に。

雨の中を歩くつもりは無かったんですが、炎天下も勘弁です。なので、逆転の発想というのか、盆地で暑い京都ではなく、開けた大阪の地を出発地とすることにしました。2回目以降は、夏場を避けて秋・冬にする、ということで。

そんなわけで、1回目の今日、高麗橋を出発の地として、京街道を歩いてみました。

高麗橋~京橋

まずは、高麗橋。

地下にある京阪電鉄の北浜駅を30番出口から地上に出て、東横堀川沿いに少し南へと下ります。最初に見える今橋の次が高麗橋になります。

この橋を渡り、阪神高速環状線をくぐったところにあるのが、この「里程元標跡」です。

4年前の5月に、暗越くらがりごえ奈良街道の一部を歩いたときにも起点としたところです。

東京(江戸)の日本橋と同じように、大坂の地で主要道路の起点とされたのが、この高麗橋の袂になります。

では、出発。

まずは、北へと歩き、府道168号線(この区間は「土佐堀通」と呼ばれます)を京橋の方へ、つまりは東へと歩きます。

京阪天満橋駅の手前にある交差点(名称板が無いんですが、「志な乃亭 天満橋店」、福助ビルのある交差点)を右に曲がれば暗越奈良街道となるのですが、今回は京街道なので、まっすぐ京橋方向へと進みます。

天満橋駅のビル前あたりに見えてくるのが、これ。

「八軒家船着場の跡」の碑です。

駅ビルの向こうには大川が流れていて、北前船や三十石船の行き交う港があったそうです。今では観光船の船着き場になっています。が、駅ビルの反対側なので、ここからでは川の雰囲気は感じられませんね。

天満橋交差点で谷町筋を越えてそのまま直進。それまでの東進からやや北東へと向きを変えるのは大阪城があるからですかね。天満橋駅から大阪城へと向かうのか、インバウンドの旅行客の姿も見えました。

京阪東口交差点では、地上から地下線へと下りる京阪線が見えます。

2025年らしい1枚です。

寝屋川橋を渡り、車通りの多い片町の交差点を行き過ぎます。

JR東西線の大阪城北詰駅の地上出入口を過ぎてすぐにある片町東交差点の直前にある道を左へと曲がります。

写真の左手の方ですね。で、すぐの(写真にも写っている)四辻の交差点を右へと折れます。

街道によくみられる緩やかなカーブがあったりと、普段は意識せずに歩いていた道も、街道だったんだなということを、意識させられた気がします。

京阪京橋駅に近付いて来ますので、マクドナルド・マツモトキヨシのあるあたりから、JR・京阪の乗り換え口になる駅前広場へとつながる階段を下ります。

厳密には京街道からは離れてますが、駅ビルがあるので仕方ないですね。

駅ビル北側にある成城石井、表に出て三井住友銀行を左手に見る位置から、京街道を再開。

少し歩くと、こんな道標が見えてきます。

「右 大和 なら/のざき」「左 京みち」なのですが、下が埋まってますね。

京橋駅近辺はもう、何度となく通ってますが、この道標を意識して見たのは今回が初めてです。

そういえば、京橋駅のすぐ北側にあるJR大阪環状線の高架橋側面にも「京街道」の文字が記されてたんですね。これも意識したことがなかった気がします。

京橋~関目

この高架橋をくぐってすぐ左手にある新京橋商店街のアーケードを歩きます。

アーケードのある商店街が街道というのも違和感があるんですが、ある意味、街道での賑わいを今にも残している、と言えるのかもしれないですね。

この商店街を歩くと「京かいどう」の碑が出てきます。

大阪市の名前が入った碑ですので、左側にある概略地図は、京橋から野江村、千林村などを経て、今市村までのものとなっています。

ほどなくしてアーケードは終わりますが、商店が店を構える姿はしばらく続きますので、街道の面影が残っている、ということでしょうね。

街道沿いには、このような道標をあちこちで見ることができます。もっとも、この写真のものもそうですが、平成以降に作られたものが多かったですけどね。

この裏手には「大阪城京橋口から二・一キロメートル」との表記がありました。

車通りの多い道に出て、「野江3西」の交差点を東へと曲がります。

「野江4」の交差点を北へ城北筋へと進むのが京街道なんですが、間違えて北東方向への都島通を歩いてしまい、「野江4」まで戻るというタイムロスがありました。

今回、京街道のルートは、歴史街道推進協議会の「歴史街道」からダウンロードさせて頂いたものを参考にしているのですが、ここでひとつ、注意です。

この「野江4」の交差点、地図の北が45度ほどズレているので、都島通が東に、城北筋が北東にと見えます。このあたりの地理を知っているからこそ陥ったのかもしれませんが、斜め右上に進む道が城北筋なので、錯覚に陥ります。お気を付けください。

野江4から北へと歩きます。

大阪メトロ谷町線の野江内代駅の出口を過ぎてすぐに京街道の道標があります。

おや?京橋口から二・一キロメートル、ってさっきから全然進んでないじゃん…。

数百メートルは離れてるはずですけどね。

カーブのある街道っぽい道を進みます。建物に歴史を感じるものは残っていないですが、道の形状には残る、ということでしょうね。

都島通に出て、さきほど間違えて引き返したところから目と鼻の先の場所に。

阪急オアシス高殿店の前を過ぎて、都島通から外れるように左手に道が分岐します。こちらが京街道です。

しばらく行くと「京街道」の碑があり、こちらは「京橋口から三・三キロメートル」となっていました。

その向かいに、「大宮神社 一の鳥居」があったとされる説明書きがありました。

ここから先1.3kmのあたりに大宮神社があって、そこまでを大宮道と言ったそうですね。

我々は左に折れる大宮道ではなく、京街道を進みます。

次の交差点で大きな疑問符が。

歴史街道発行の地図では、関目神社の前を通るべくここで都島通へと戻る道が京街道となっているんですが、 大阪市が整備した京街道はそのまま直進して都島通へと出るとなっています。関目神社は通らないルートですね。

恐らくは、大阪メトロ関目高殿駅までは、この直進ルートが京街道で、そこから先(都島通より南側)は歴史街道が示したルートが京街道なのではないかと思います。都島通の整備が、京街道を分断してしまったのかな、と。

いずれにしても、当時の面影を残すものは特にないので、先へと進みます。

関目~太子橋今市

大阪メトロ関目高殿駅のある「関目5」の交差点から見えたビルには京街道の文字。マンションの名前だそうです。意識されてるんですね。

この交差点は変形の五差路で、その北東方向へと分岐する最も細い道が京街道となります。

この分岐点にも京街道の碑があり、「京橋口から三・八キロメートル」と記されていました。

ここからは、緩やかカーブが連なる街道らしさのある道をしばらく北上します。

城北川を橋で渡ります。

橋のすぐそばには、ごつごつとした「京かいどう」の道標があります。「大阪城京橋口から四・三キロメートル」となっていました。

すぐ先にも「京かいどう」の道標があり、こちらの裏を見ると「昭和六十年 大阪市」の文字が。

そのすぐ先にある森小路東公園に、京橋の商店街で見た大判の「京かいどう」の碑があり、そこにも六十年 大阪市とありましたから、同時期に整備されたんでしょうね。

右手に曲がると京阪森小路駅、という交差点を過ぎると道の両側に商店が増えて来ます。

飲食店も多く、かつては茶店なんかもあったんですかね。駅が出来るまでは何もなかったかもしれませんが。。

この商店の多さは、そのまま千林商店街へとつながります。

ここまでが「森小路 京かい道」ということなんですかね。

京街道はこのまま千林商店街を写真の奥方向へと続きますが、右手に延びるアーケードは京阪千林駅へと続いています。その右手には、大きな説明書きが。

これにつられて右手(駅方向)に行かれませんように。。

大阪メトロ千林大宮駅方面へはアーケードが続きますが、京街道の方のアーケードはすぐに途切れます。商店はしばらく続きますけどね。

そのまま京街道を先へと進むと、今市のバス停付近で国道1号線に出ます。

ここから大阪メトロ太子橋今市駅を過ぎると、内環状線との交差点、「京阪本通1」へと到達します。

太子橋今市~守口宿~鳥飼大橋

NTT西日本守口ビル・紀陽銀行守口支店のある交差点を右手に曲がります。

アーケードの見えるところまで歩き、その商店街を東へ(北東方向へ)と進みます。

地図では守居神社の横を通るように見えますが、商店の向こう側になるのか、そんな雰囲気はまったく感じなかったですね。

その先でアーケードが途切れると、こちらはすぐに商店もなくなり、住宅地の雰囲気に。

左手に日吉公園を見た後、守口市役所が左手に見える交差点を右へと曲がります。

その先に、突如として上り勾配が現れます。でも、そこにはきちんと「京街道」の文字が。

その先には、橋も見えます。

といっても、川を渡る橋ではなく、下には道路が通っています。

道路と立体交差する不思議な京街道。

これこそが、豊臣秀吉が築かせた「文禄堤」です。

その後の江戸時代、江戸から57番目の宿場としてこの地に作られたのが守口宿となります。かつては長大な堤があったそうですが、現在ではこの守口付近のみにその姿を残しているのだそうです。

さきほどの立体交差する端の部分は、後世に堤をくり抜いて作られたもの、ということですね。

同じような交差部は、京阪守口市駅に面したあたりにもあります。

その先には守口宿 高札場が。

もちろん、復元されたものですが、街道の雰囲気を感じることが出来ます。

少し歩くと、このような歴史を感じる建物が残されていたりと、今回の街道旅で、最も街道っぽさを感じたところですね。

その少し先にある「来迎坂」は、写真下に道標が示す通り、京街道と「奈良・野崎」方面へ奈良街道の分岐点になります。

少し行き過ぎたところに、このような説明書きがありますので、よく判ると思います。

堤を下りて、八島の交差点を1号線ではなく、右折する形で府道158号線へと進みます。こちらが京街道です。

マクドナルドの敷地内に「大塩平八郎ゆかりの書院跡」があります。その次の交差点を左に曲がるのが京街道となります。

守口宿の説明板があるので判りやすいですね。

そのまま直進し、浜町の交差点で国道1号線を横切って、さらに北上します。

ほどなく、「守口宿一里塚跡」があります。

守口宿が近いことを示すためのもの、ですね。

その先、府道155号線の交差点で155号線の方へと進みます。ほぼ北へと向かっていることになります。

府立守口東高校を右手に見て進み、日本通運大阪東支店の前にある、左への分岐路を分岐側に入ります。

ところどころに京街道の碑がありますが、道路や風景にそれを感じるものは無く、唯一感じるのは、細めの道で、カーブがあるかな、というところくらいですかね。

八雲公園を過ぎて、阪神高速守口線の高架をくぐって道なりに歩き、八雲北公園で左折。

守口市水道局のある交差点で左(淀川方向)へと、曲がります。

車両の乗り入れを制限するゲートを進めば、淀川へと出ます。

淀川河川公園へとつながる道路は車も走るので歩道を歩きましょう。

左手に鳥飼大橋が見えくるのでそのまま直進したいところですが、歩道に従って、下ります。

この先で、中央環状線の道路をくぐるアンダーパスとなり、道路の東側へと出ることが出来ます。

もちろん、江戸時代にこんなアンダーパスはないですが、現在ではこの道が京街道の代替ルートとなっています。

ここに北河内サイクルラインと書かれた看板が立っているんですが、この先、京街道はこのサイクルラインに沿って、淀川の築堤上を歩くことになります。

本当は、もう少し先まで淀川に沿って歩くつもりにしていたんですが、出発時間が遅くなったことで、まともに午後の炎天下を、遮るものがない築堤上を歩くのが怖くて、今日はここまでにしました。

もっとも、最寄りの大日駅までは800mほどあるのでちょっと無駄足にはなってしまいますが、熱中症で倒れるよりはいいですからね。

というわけで、京街道第一弾は、出発点の高麗橋から鳥飼大橋の袂まで、とします。次回は秋以降になりますが、この地点から京街道の徒歩旅を再開したいと思います。