三条大橋から石山詣・旧東海道を歩く(その3)

京都・三条大橋から東海道を歩いて近江国石山寺への石山詣。

山科を過ぎて、旧東海道で京都府から滋賀県への県境を過ぎたところからとなります。

府県境まではこちら。

府県境~閑栖寺

府県境を越えて200mほど。左手にスーパーマーケットの「フレスコ四ノ宮店」があります。旧東海道に面したお店は、敷地全体が滋賀県ですが、名前は四ノ宮。

もっとも、南側に30mも行けば京都市山科区の四ノ宮ですから…、というか、地図をよく見ると、滋賀県内でも四ノ宮の名前を付けたマンションがたくさんありますね。

スーパーを行き過ぎると目の前に国道1号線の高架橋が見えてきます。

旧東海道も国道1号線の側道とつながるのですが、その合流点のすぐ手前の右手に、車石の説明を書いた大きなパネルがあります。

このイラストが、車石をよく表してますね。

これだけの米俵を牛車に積んだら現代の自動車のタイヤならともかく、幅の狭い車輪は土にめり込むでしょうから、花崗岩の石を敷き並べるアイデアはよく考えられたものだと思います。

このパネルのすぐ左手に、「旧東海道街道案内」というのがあり、ここ「横木」の地名の由来が書かれています。

(略)通行に大変な苦労をしたので堅い丈夫な木を横に引き詰め荷車の通行に役立っていたので(略)

なるほど。それで横木なんですね。その木が何度も老朽化したことから花崗岩に取って代わられた、ということのようです。

1号線のそばに出ると、こんな案内板がありました。

逢坂山までのルートと要所が描かれています。それだけ旧東海道を歩く人も多い、ということなんでしょう。

で、まずは60m先の陸橋を横断。ということなんですが。。

60m先に見たものは…。

なんということでしょう。

工事中で通れません。

出発前は赤色の線で歩く予定だったんですが、実際には紫色の線のルートを歩きました。

曲がりくねっているのは、国道1号線を横切るためのスロープです。案内図には「地下道をご利用ください」とありますが、地下道というよりは、高架下ですね。

そんなわけで、予定なら歩道橋を渡ってすぐに東海道へと復帰できたはずなんですが、高架下の通行を余儀なくされたので、合流点までの旧東海道歩行は諦めます。実は、この諦めが後で大きな影響を及ぼしたんですが、何があったのかは、後ほど。

上で挙げた地図にも書かれていますが、東海道に合流してすぐのところに「牛尾山道標」があります。

これまでのものより、こじんまりした道標ですね。

この道をまっすぐ行くと、牛尾山に行くことが出来ます。

先に進みます。

左手に、坂本方面から来る国道161号線の高架橋と1号線の高架橋が合流するジャンクション的なものが見え、それを過ぎるとすぐに「閑栖寺」があります。「かんせいじ」と読み、浄土真宗大谷派のお寺で、山号は放光山。

Google Mapの情報では、この近くに「東海道 逢坂関道標」がある、とのことで、見つけたのがこれ。

西面には「西 京三條」と読めるのですが、東面にはフェンスがあってよく見えず。後で調べたら、東面に「東 逢坂関」と刻まれていたようです。

そのすぐ脇には実物の車石が置かれていて、説明書きも添えられています。

その車石に興味を持った観光客と思われたのか、お寺の方から「見はりますか?中に車石の…」と声を掛けて頂きました。

車石を復元したものが境内にあり、それを見せて頂けるようです。

間隔を原寸大で再現しているということです。車石自体は寄せ集めということで並び順は違っていたんでしょうが、牛車が通るだけあって、幅は広く感じます。

左側には人馬道も再現されています。

車石は牛車の車輪に合わせて溝を掘ったわけではなく、日々多くの牛車が行き交うことで自然と削られていったのだとか。「雨垂れ石を穿つ」という言葉を思い出しました。

ついさっきも車石を見るため、ツアー客が訪れていたとのことで、旧東海道を歩く人には必見のスポットだったようですね。

閑栖寺~追分~走井

閑栖寺を出てほどなく、道端に無造作に放置された車石がありました。

このあたりの方にとっては、「ありふれたもの」なんでしょうね。数もかなりあったでしょうし。

もう少し歩くと追分町自治会館があり、そこの前にも車石の展示とともに追分町の由来が紹介されていました。

なんか、ここまでたくさんあると稀少性が。。歴史的な遺物なんですけどね。

もう少し歩くと、追分の道標があります。

Y字型の三叉路で、写真では分かりづらいですが、右奥の京都側から歩いて来ました。写真手前側が、これから向かう逢坂の関側。振り返っての写真です。

左は、伏見・奈良方面。この道標を意識して見ていたので、京都市-大津市の標識は気にしてませんでした。が、ここにも府県境があったんですね。

緩やかな上り坂が続きますが、突然左手が開け、国道1号線が結構下に見えます。

そこで目にしたのがこの標識。

実際には既に滋賀県に入っていたんですが、はっきりと滋賀県を意識したのはここからですね。

滋賀県を意識する写真を撮っていたからか、この少し先にあるおうちにお住いの、ご年配の女性に声をかけられました。

「どこから来はったん?」

京ことばですね。

大阪市に住んでいることと、今日は三条大橋から石山寺へ歩いて向かっていることを告げると驚かれたんですが、面白いことを教えてもらいました。実はこの滋賀県大津市の標識、立っているのはかろうじて滋賀県なんですが、旧東海道を挟んで南側は京都市なのだとか。旧街道が県境になっているのは珍しいですね。

この府県境を道なりに歩くと、両側ともに滋賀県となり、国道1号線と合流します。が、相変わらず府県境は道路の脇を走っていて、完全に滋賀県と言えるのは、800mほど先の月心寺あたりからとなるでしょうか。

車通りの多い国道1号線の向こうに京阪京津線が現れます。

我々が御陵を過ぎてJR東海道線の高架をくぐったあたりで、京阪京津線は地下から地上に出ていました。途中、踏切は見えたものの、そばを走っている、という感じはあまりしなかったですね。

月心寺の手前にあるのが、「走井はしりい一里塚」。

「右 一里丁 左 大谷町」と書かれています。

走井という名前が記されているわけでもないですし、この辺りは現在の地名では既に大津市大谷町ですから、走井ではありません。その昔、この前に「走井茶屋」があったんだそうです。

走井とは地名ではなく、走る井、で、湧き方に勢いのある井戸とのこと。その井戸が、月心寺の敷地内にあり、今も水が湧いているのだとか。この水を使ったお菓子が「走井餅」。「走井茶屋」で「走井餅」を食べて、旅の疲れを癒し、都へ入る装いを整えたのだそうです。「走井餅」が大津の土産物で有名なのは知ってましたが、まさにここが発祥とは知りませんでした。

入口左側に薄く「月心寺」と書かれている

その月心寺の隣にあるのが、「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」の碑。

慶長17(1612)年に、片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたと伝わっています。先ほどの一里塚近くで大津算盤を販売する店を構えていたそうです。

走井~逢坂

ここから300mほど進んだところにある歩道橋を渡って1号線を越えます。

歩道橋を渡らなくても1号線沿いに歩道は続くのですが、1号線のやや北側にある道が旧東海道になります。

歩道橋の上から1枚。

歩道橋を下りてから、写真左側の道を行くんですが、250mほど歩くと再び写真右側の国道1号線と合流します。

この短い区間に「大谷茶屋」「逢坂山かねよ本店」など、山の中なのに鰻料理の店が並びます。

時刻は11時半。三条大橋から2時間20分ほど。距離としては、三条から石山までの真ん中よりやや手前くらいになるでしょうか。ゆっくりと鰻料理を満喫するにはまだ早いので、素通りします。

「元祖走井餅本家」。

ここから走井一里塚までは直線で500mほど。井戸は月心寺なので一里塚が「走井」というのは間違いないんでしょうが、こちらは「走井」の水を使った「走井餅本家」の碑。一里塚のそばに茶屋があったのか、ここ大谷にあったのか。。

いずれにしても、この近辺が走井餅の起源となったのは間違いなさそうですね。今日のお土産に買って帰ることにしましょうか。

京 三条への道標を右手に見ると、すぐに左手に蝉丸神社が現れます。

蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」で有名ですよね。読み札に描かれた蝉丸の、独特の風貌が忘れられません。

もともとは弘仁13(822)年に猿田彦命と豊玉姫命を祀ったのが始まりのようで、平安時代中期に逢坂山に住んでいた蝉丸の死後、音曲芸道の祖神として併せて祀られるようになったようですね。

今回は参拝は見送り、写真を撮るだけで先に進みます。

鰻料理の「かねよ」の前を通り過ぎ、国道1号線と合流。

ここに公衆トイレがあり、その壁面に付近の案内や紹介が書かれたパネルが貼られていました。

このパネルは前からあったように見えますが、そのそばには、明らかに最近設置されたと思われる「光る君へ」を意識した紫式部に関する展示がありました。薄いシート状のもので作られてるんですね。

そのすぐ横には、こちらはしっかりとした案内板。

少々年季が入ったように見えますが、逢坂の関について書かれています。

その横には「逢坂山関址」と記された碑があります。

が、歴史の知識不足で誤解していたんですが、逢坂の関は、現在でもはっきりとした位置が特定できていないんですね。昭和7(1932)年に滋賀県が建てた碑ですが、特に「ここだ」というわけでもなさそうです。

ちなみに、先ほどの案内板があるところは「逢坂の関記念公園」と言い、平成21(2009)年に整備されたんだそうです。

ここから国道1号線沿いを琵琶湖に向かって歩きます。

反対側の歩道の方が広そうではあるんですが、こちらにも歩道はあるので、横断はせずに歩き続けます。

ところが、途中で歩道がなくなり、こんな状況に。

とはいえ、関蝉丸神社もこちら側ですし、その先、曲がりたい道もこちら側なので、歩き続けます。

その、関蝉丸神社上社。上社の方の祭神が猿田彦命だそうです。

参拝はせずに先へと進みます。

名神高速の高架橋をくぐり、国道1号線から県道558号線に入ってすぐ、歩道から左手に、ちょっとした上りの坂道が分岐しています。

街道を歩くツアー客っぽい人が下りてきたので、代わりに上がってみました。

明治13(1880)年に竣工した旧逢坂山トンネルですね。大正10年に線路変更により廃線になるまで40年間、使用されていました。

京都-大津間を、現在の新逢坂山トンネル、東山トンネルのような長大なトンネルを掘らず(掘る技術も無く)、稲荷駅(現在のJR奈良線稲荷駅)から稲荷山の南側を周り、追分、大谷と通って(大谷駅があったそうです)、この逢坂山トンネルを抜けて馬場駅(現在の膳所駅)に達するルートが、新橋-横浜間で日本に鉄道が初めて開業してから8年も経たない明治13(1880)年7月に開業していた、というのは驚きでもあります。

トンネル上部には「楽成頼功」の文字。

竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、本来「落成」とすべきところを「落盤」に通じる忌み言葉として、縁起の良い「楽成」の字をあてたとのこと。

今回は旧東海道を歩くということで、江戸時代までの歴史に触れる旅になるかと思っていたら、意外なところで明治時代の遺構に出会えました。

山を下り、びわこ浜大津駅方面へと向かう京阪京津線と交わる踏切の直前にあったのが、「逢坂」の碑。

大津(中心部)方面からすると逢坂への入り口に当たるこの地に、碑が建てられたんでしょうか。

このあたりで、京都の三条大橋から約10km。石山寺までも、半分を過ぎました。

時刻は12時02分。山科の手前で見た特急「サンダーバード13号」に接続する「つるぎ14号」が、山科から200km以上離れた金沢駅に到着する時刻です。

この間、我々が移動したのは6kmほど。江戸時代までの旅ってこんなペースだったんですよね。

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