時刻表復刻版 1986年11月号を購入

JTBパブリッシングが発行する『時刻表復刻版』に、第12弾となる 1986年11月号が発売されました。

時刻表復刻版 第12弾

第1弾「1964年10月号」(昭和39年)
第2弾「1964年9月号」
第3弾「1988年3月号」(昭和63年)
第4弾「1968年10月号」(昭和43年)
第5弾「1967年10月号」(昭和42年)
第6弾「1978年10月号」(昭和53年)
第7弾「1925年4月号」(大正14年)
第8弾「1982年11月号」(昭和57年)
第9弾「1985年3月号」(昭和60年)
第10弾「1972年3月号」(昭和47年)
第11弾「1982年6月号」(昭和57年)
と続いての、第12弾。(リンクは、それぞれの紹介ページです)

今回の第12弾は「1986年11月号」。昭和61年11月です。○○が開通、というイベントによる大きな改正ではなく、5ヶ月後に分割民営化を控えた、国鉄最後の全国ダイヤ改正、という象徴的な改正号です。

といっても、新規開業もあります。福知山線の全線電化開業ですね。これについては後ほど触れたいと思います。

今回も、関西人の私が個人的に気になった部分について、見ていきたいと思います。

ポイント①:寝台急行「銀河」24系25形化

東京と大阪の間を走っていた寝台急行「銀河」。1976(昭和51)年2月から20系が使用されていました。その頃、東北方面では「ゆうづる」や「あけぼの」が寝台特急として、まだ20系が使用されていた時代。「あさかぜ」から始まる伝統ある寝台特急用の20系車両が急行として初めて使用された列車です。

長い期間20系で走っていたような気がしていたんですが、結果的には9年ほどだったんですね。1985(昭和60)年3月の改正で14系14形に置き換わりました。

20系投入は1番乗りでしたが、急行の14系化は北海道の「利尻」や「大雪」「まりも」が、「銀河」より2年も前に行われています。冬の北海道は10系寝台車の蒸気暖房では効きが悪く、サービス向上のため早々と14系化されたようです。

後れを取った感のある「銀河」が、14系化からわずか1年半後のこの改正で、24系25形の2段寝台化されました。九州の「かいもん」「日南」も、この改正で20系寝台車が24系25形化されていますので、唯一では無いのが惜しいですが、東京-大阪の伝統ある「銀河」の面目躍如といったところでしょうか。

※「かいもん」「日南」の24系化は11月3日の上りから(両列車とも鹿児島所属)だったようですので、わずかに「銀河」が先行ですかね。

ちなみに「ダイヤ改正移行ダイヤのご案内」によると、ダイヤ改正前日、1986(昭和61)年10月31日の寝台急行「銀河」は、東京発、大阪発のいずれも、「A寝台車+★1つのB寝台車」での運転だったようです。

改正日の11月1日(土)は、東京発の下りだけ、1日限定で「A寝台車+★1つのB寝台車」となりました。大阪発の上りはダイヤ改正後の所定通り「A寝台車+★3つのB寝台車」での運転です。「銀河」は所属が品川客車区ではなく宮原客車区ですから、10月31日に大阪を出た14系の返却が必要ですからね。

ダイヤ改正により運転時刻は、下り東京発が変わらず22時45分ですが大阪着が8時00分から7時43分と20分ほど早くなり、上り大阪発が21時50分から22時10分、東京着が6時35分から6時54分と20分ほど繰り下がっています。

そういえば、1985(昭和60)年3月号は、ページ構成が、
 東海道本線(東京-名古屋)下り、
 東海道本線・山陽本線(名古屋-岡山)下り、
 山陽本線(岡山-門司)下り、
 山陽本線(門司-岡山)上り、
 山陽本線・東海道本線(岡山-名古屋)上り、
 東海道本線(名古屋-東京)上り、
の順ですが、分割民営化を意識したダイヤ改正の1986(昭和61)年11月号は、
 東海道本線(東京-熱海)下り/上り、
 東海道本線(熱海-米原)下り、上り、
 東海道本線・山陽本線(米原-岡山)下り、上り、
 山陽本線(岡山-門司)下り、上り
の順になってますね。

この間に変わってたのかもしれませんが。。

ポイント②:寝台特急「あかつき」1往復に削減&「明星」の廃止

それまで、新大阪-長崎を走る「あかつき1号・4号」と、新大阪-鳥栖間で併結する新大阪-西鹿児島を走る「明星」が毎夜定期列車として走っていましたが、この改正で廃止になっています。

これにより、「あかつき」は新大阪-長崎・佐世保の1往復だけとなりました。

「明星」は、改正後もそれまでと同じ時間帯に臨時列車として多客期に走ったようですが、定期列車時代の14系15形2段式B寝台から、20系の52cm幅3段式B寝台へと一気にグレードダウン。臨時とはいえ、ひどい扱いです。今思えば貴重な列車ではあったわけですけどね。

1往復とはいえ定期列車として残った「あかつき」は、この改正から佐世保編成に座席車が1両、連結されるようになりました。JRへの移行後もしばらくこのスタイルでした。

ちなみに、こちらの移行ダイヤは「銀河」とは逆で、前倒しです。

改正前日の10月31日に新大阪を出る「明星・あかつき1号」は運休。11月1日からの新ダイヤで号数なしの「あかつき」が走っています。1日フライングで佐世保編成には座席車が連結されていますね。

一方、上りは「明星・あかつき4号」がそのまま走っています。が、日が変わってからは、「明星・あかつき4号」用のダイヤは存在しませんので、日替わり前の鳥栖(23:45発)からは、新ダイヤの「なは」の筋で新大阪まで走ったようですね。

「なは」はというと、ほぼ旧ダイヤのまま新大阪まで走っています(数分の調整あり)。神戸・大阪近辺では、8時よりも前だと列車線には余裕があったんでしょうね。

垂水・須磨を通過する快速の最初の列車が大阪駅に到着するのが8時09分という時代でした。最初の上り新快速が大阪に着くのは9時27分。今では考えられないですね。

ポイント③:急行「ちくま」1往復に削減

こんな見出しを付けると誤解されそうですが、この改正までも、毎晩走っていたのは定期の1往復だけでした。その名は急行「ちくま1号・2号」。20系寝台車+12系座席車の編成です。

1号・2号がある、ということは3号・4号もある、ということ(とも言えないか…)。

「ちくま3号」は、「ちくま1号」の後を追って走る季節列車。165系の電車急行です。「ちくま4号」は長野を10時45分に出て大阪には18時17分に着く昼行列車。もちろん、こちらも季節列車です。

それが、この改正で、定期夜行は「ちくま」と号数なしの表記になり、「ちくま3号」は「ちくま81号」に、「ちくま4号」は「ちくま82号」にと、それぞれ季節列車から臨時列車へと格下げになっています。大阪-松本間を、大阪-南小谷を走る「くろよん」と併結で走るのは、改正前も後も変わらないんですけどね。

定期「ちくま」は、この改正で14系寝台車+12系座席車の編成に変わっています。寝台車3両+座席車7両は変わらないので、この変更は時刻表からだけではわからないですね。

ポイント④:激変・福知山線~山陰本線

福知山線・山陰本線の宝塚~福知山~城崎間の電化完成が大きいですね。

それまで、福知山線の特急列車と言えば、大阪(新大阪)-米子間の「まつかぜ」2往復のみ。「まつかぜ1号・4号」は、かつて山陰本線経由で大阪-博多間を走っていた、食堂車も連結する長距離特急でした。米子で「いそかぜ」と系統分割されたものの、乗り継ぎが出来るダイヤではなく、単に2つの列車にぶった切られただけですね。

その他の福知山線の優等列車と言えば、天橋立や、城崎、福知山へと向かう急行「丹波」、もっと遠距離の益田、出雲市、鳥取へと行く急行「だいせん」がありました。

優等列車では無いものの、大阪を5時49分に出て、出雲市に19時08分に着く客車の普通列車や、対となる米子発大阪行の普通列車など、今では到底考えられない列車が走っていた時代です。

それらが一変したのがこの改正。

夜行の急行「だいせん」1往復以外の特急・急行は全てL特急「北近畿」となり、485系の電車特急となりました。なので最遠でも城崎まで。これは「こうのとり」になった今でも変わらないですけどね。

急行「だいせん」は、それまでの20系車両から、「ちくま」と同じ14系寝台車+12系座席車へと車両が変わりました。14系14形の3段寝台ですね。

福知山線が電化され、急行「だいせん」以外ではDD51の姿を見ることが出来なくなりましたが、「だいせん」以外の旅客列車が電車化されたとはいえ、運転本数は今とは比べ物にならない数でした。

宝塚から大阪方面への朝の時間帯を比較すると…。

時間帯1985年3月1986年11月2024年3月
5時台41 普通(大阪)50 普通(大阪)
57 急行だいせん(大阪)
15 普通(吹田)
24 普通(木津)
37 普通(京都)
51 普通(大阪)
6時台03 急行だいせん(大阪)
25 普通(大阪)
59 普通(大阪)
34 普通(大阪)
57 普通(大阪)
04 普通(高槻)
10 丹波路快速(大阪)
18 快速(木津)
21 普通(四条畷)
24 普通(四条畷)
27 丹波路快速(大阪)
34 快速(木津)
37 普通(松井山手)
46 普通(草津)
49 快速(木津)
56 普通(京田辺)
59 丹波路快速(大阪)
7時台19 普通(大阪)
30 普通(大阪)
38 普通(大阪)
52 普通(大阪)
58 普通(大阪)
07 普通(大阪)
17 普通(大阪)
27 普通(大阪)
33 普通(大阪)
45 普通(大阪)
57 普通(大阪)
05 快速(木津)
09 特急こうのとり(新大阪)
12 快速(大阪)
14 普通(高槻)
19 丹波路快速(大阪)
18 快速(木津)
21 普通(高槻)
25 快速(大阪)
32 快速(木津)
35 普通(四条畷)
39 快速(大阪)
42 普通(長尾)
45 丹波路快速(大阪)
49 普通(長尾)
53 快速(同志社前)
57 普通(高槻)
8時台16 普通(大阪)
34 普通(大阪)
50 快速(大阪)
16 普通(大阪)
31 特急北近畿(大阪)
42 普通(大阪)
59 普通(大阪)
00 丹波路快速(大阪)
07 快速(木津)
09 普通(大阪)
14 特急こうのとり(新大阪)
17 快速(大阪)
21 普通(放出)
27 快速(木津)
27 丹波路快速(大阪)
30 普通(大阪)
39 普通(四条畷)
41 快速(木津)
45 丹波路快速(大阪)
51 普通(大阪)
55 普通(大阪)
58 快速(同志社前)
水色:客車  オレンジ色:ディーゼル車  無着色:電車

JR東西線が完成して学研都市線(片町線)方面への列車も増え、6時台に発車する列車数は2本から12本の6倍にもなっています。

ポイント⑤:紀勢本線から消えた客車列車

天王寺から和歌山・白浜・新宮を通り、亀山まで(古くは名古屋まで)走り続けた夜行普通列車「はやたま」から寝台車の連結がなくなったのが1984(昭和59)年2月の改正。翌1985年3月改正では新宮打ち切りになり、さらにこの改正で、電車化されてしまいました。おまけに、新宮発の夜行の設定は無し。

それでも、天王寺発新宮行の夜行列車として残ったのは、それなりの需要があったからなんですよね。

1984年の改正で旧客から12系客車に変わったはずですが、日中に遊ばせておくのを避けるため、新宮 6:32発 - 和歌山 12:16 着 と 和歌山 13:42発 - 新宮 19:57着と、の客車による普通列車が設定されていました。

片道となった夜行列車も電車になったことで、折り返し新宮発和歌山行の設定も無くなっています。

亀山-新宮の紀勢本線東側も、2往復あった客車列車は無くなり、全てディーゼル列車になっていますので、紀勢本線から定期の客車列車は無くなりました。

ポイント⑥:ひっそり消えた急行荷物列車

昔の時刻表を見ると、旅客列車の後ろに、「急行荷物列車」という列車のダイヤが掲載されていました。この列車が時刻表から消えたのが、この1986年11月改正。

掲載が無くなったのではなく、列車そのものが廃止されています。完全にトラック輸送に負けた、ということですかね。

2晩かけて汐留から鹿児島に走っていた列車や、25時間かけて大阪から青森まで走っていた列車など、懐かしいですね。

それが、この改正から、時刻表の右端は終列車か夜行列車に。分割民営化を睨んで、各社をまたがって走る「貨物」ではない「荷物」列車が消えていったのも、一つの時代の転換点、ということでしょうか。

ポイント⑦:ひっそりと消えた昼行特急食堂車

北海道を走る特急「おおとり」、特急「オホーツク5号・2号」に連結されていた食堂車。

キハ82系で運転されていた両列車が、この改正でキハ183系に更新されることにより、食堂車が廃止となっています。これで、新幹線を除く昼行特急から食堂車が消えました。

東京発の九州・山陰方面寝台特急ではJRになっても食堂車の営業は続きましたし、新たに「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」で営業を開始する列車もありましたが、観光列車ではない在来線特急列車から食堂車が消えたのは、国鉄最後のこの改正だったんですね。

ポイント⑧:「柳生ハイキング号」

聞きなれない列車だと思います。もちろん臨時列車です。

関西本線の湊町(現・JR難波)駅から奈良を通って柘植駅まで直通の臨時列車です。湊町から王寺までは快速、そこから先は各駅の停車で、湊町 9:08発 - 奈良 9:56着 - 柘植 11:26着 / 柘植 13:40発 - 奈良 15:00発 - 湊町 15:49着 というダイヤでした。

列車番号は湊町発が 9224D、着が 9247D。そう、ディーゼル列車です。関西本線ですからね。電車では無理です。

もちろん、まだ地上時代の湊町ですからディーゼルでもおかしくないんですが、臨時とはいえ、そんな列車が走ってたんだ、という驚きでした。

最後に

細かなところでは、他にもいろいろありますが、1986年11月改正ダイヤ(時刻表復刻版 1986年11月号)を、関西人の目線から個人的に気になったところを紹介してみました。

ちなみに、このダイヤ改正については、『国鉄最後のダイヤ改正 - JRスタートへのドキュメント ー』というタイトルで、進士友貞氏により交通新聞社から2007年に発行された書籍に、その決定過程がドキュメンタリーとして著されています。

進士友貞氏は、このダイヤ改正当時の本社列車課長という役職に就かれていた方で、面白く読ませて頂いたことを覚えています。とはいえ、発行直後に読んで以来しばらく書棚に眠っていましたので、これを機に、久々に読み返してみようかな、と思います。