時刻表復刻版 1972年3月号を購入
JTBパブリッシングが発行する『時刻表復刻版』に、第10弾となる 1972年3月号が発売されました。
時刻表復刻版 第10弾
第1弾「1964年10月号」(昭和39年)
第2弾「1964年9月号」
第3弾「1988年3月号」(昭和63年)
第4弾「1968年10月号」(昭和43年)
第5弾「1967年10月号」(昭和42年)
第6弾「1978年10月号」(昭和53年)
第7弾「1925年4月号」(大正14年)
第8弾「1982年11月号」(昭和57年)
第9弾「1985年3月号」(昭和60年)
と続いての、第10弾。(リンクは、それぞれの紹介ページです)
今回の第10弾は「1972年3月号」。昭和47年3月です。山陽新幹線の新大阪~岡山間が開通したダイヤ改正号ですね。
第6弾となる1978年10月号以降の 1982年11月、1985年3月、1988年3月の改正は、自身にとっても馴染みのある改正ですが(1978年改正のは、改正そのものではなく改正による列車が、ですね)、今回の1972年3月号は、「知らない世界」です。
1978年10月=懐かしい思い出、1972年3月=過去の歴史、という感じでしょうか。
なので、記念すべき第10弾なんでしょうが、個人的には「待ってました!」という感じでは無いのでテンション低めです(笑)
とはいえ、関西人にとっては大きな改正ですよね。それまで新大阪止まりだった新幹線(東海道新幹線)が岡山まで開業して、山陽新幹線が誕生した改正です。
これにより、山陽本線を走る多くの昼行特急が岡山発着になり…、というわけではないのが面白いところ。
というわけで、本題に入っていきたいと思います。今回も、関西人の視点から、変更点について触れてみたいと思います。
※改正前として表示しているダイヤは、手元に資料のある1968年10月改正のものです。1972年3月の改正直前のもの(1970年10月改正のもの)ではありませんので、ご了承ください。
ポイント①:ひかりは西へ
何といっても、今回の改正の目玉です。
山陽新幹線(新大阪-岡山)の開通です。でも、面白いのは、時刻表上のどこにも「山陽新幹線」という表現が現れないこと。それまでの「新幹線」を岡山まで延伸するだけで、「新幹線」は「新幹線」と。
東北新幹線が開通するまでは唯一無二の存在ですし、運行体系も一体化されてますので、東海道新幹線と山陽新幹線を区別する必要が無かった、ということでしょうね。
さて、その新幹線。
「ひかり」の多くが、東京-岡山間の運転に変わっています。一方で開業区間の「こだま」は、下りが最初の東京発「ひかり」が新大阪を出るまでの5本のみ(うち1本は臨時)。上りは最終の東京行「ひかり」が出た後の5本(うち1本は臨時)と、夕方の新大阪行臨時の1本のみ。
つまりは、日中に運転される「こだま」はゼロ。各駅に停車する「ひかり」が現れた、ということです。
「ひかり」の新大阪-岡山間の停車駅パターンは、
- ノンストップ
- 新神戸・姫路
- 各駅(新神戸・西明石・姫路・相生)
となっており、ノンストップのパターンは、上下わずかに4往復だけ。後は、新神戸・姫路停車と各駅停車が半々くらい、といった感じです。
ということは、ほとんどの「ひかり」が姫路に停車していた、ということですね。後に「のぞみ」を含む全列車が停車するようになった新神戸と、半数近くが通過するようになった姫路とが同じ扱いだった、という面白さがあります。
もっとも、この改正でも新横浜は「こだま」しか停車しない駅だったわけですから、時代は変わる、ということですね。
ポイント②:変わる大阪-岡山(昼行特急)
それまで東海道新幹線からの山陽方面乗り継ぎは当然のように新大阪駅だったわけですが、山陽新幹線・岡山開業により岡山駅での乗り換えが中心になります。
ですので、九州方面へ直通する「つばめ」や「はと」は名古屋発、新大阪発から岡山発へと変更になっています。夜行列車でも、新大阪発の「月光」(博多行)が岡山発となり、定期1往復は博多行から西鹿児島行へと運転区間が延長されています。
でも、逆に言うと、それだけなんです。岡山発着に移行したのは。
岡山駅での山陽新幹線からの乗り換えは意識されつつも、九州方面の「なは・日向」「みどり」は大阪発、「かもめ」は京都発。山陽線内の「しおじ」も新大阪発。
関西-九州間の夜行列車のほとんどが新大阪発のまま、据え置かれています。
これはやっぱり「岡山までは部分開業」だし、「乗り換えなしがいい」ということなんでしょうね。
山陽本線から昼行特急が一掃される山陽新幹線の博多開業は、わずか3年後 1975(昭和50)年3月のこと。やっぱり、暫定的な運行体系という感じがしてしまいます。
とはいえ、です。
それまで、大阪から九州へと向かう特急は、大阪発7:40の「なは・日向」が事実上の初発。「なは」は気動車のキハ82で運転していましたので、博多到着が16:18。
それが、新大阪6:03発/岡山7:20着の「こだま281号」から、7:35発の電車特急「つばめ1号」に乗り換えると、博多着が13:37。
大阪を出る時間が1時間40分ほど早いとはいえ、昼過ぎ着と夕方着の違いというインパクトがありますね。
その比較対象となった「なは」。この改正で無くなったわけではなく、依然として大阪駅発の特急として走っています。大阪駅を7:25に出るんですが、岡山駅で新大阪駅を8:03に出る「こだま271号」から乗り継ぐことができます。
…が、大阪に住む人のみんながみんな新大阪駅へのアクセスが良い訳ではないですから、大阪駅を出る時間の差を、あまり感じられない人も多かったのかな、と思います。
そういう意味では、全ての昼行特急を岡山発着としなかったのは、今、我々が置かれている立場からすると、羨ましくもありますよね。
2024年3月16日に延伸開業する北陸新幹線敦賀-金沢間。この区間の「サンダーバード」「しらさぎ」は全廃となり、全て敦賀駅乗り換えとなります。これが、国鉄時代と、新幹線開業に伴う在来線の経営切り離しがセットになった現代との違いなんでしょうね。
ポイント③:変わる大阪-岡山(夜行列車)
先ほども触れましたが、特急「月光」。1975年3月の山陽新幹線博多開業で「明星」に統合されたため個人的には馴染みのない列車ではあるんですが、電車寝台特急としてのパイオニアですよね。
この改正で岡山発着となり、新大阪-博多間から、岡山-西鹿児島間へと変更となっています。
新大阪19:12発/岡山20:20着の「ひかり41号」から、20:43発の「月光1号」に乗り換えると、西鹿児島着が8:01。
岡山-西鹿児島間は、それまでの特急「きりしま」に近いダイヤのようですが1970年10月改正ダイヤが手元にありませんので、詳細は不明です。
もう1本の「月光2号」は、岡山22:13発、博多5:05着の季節列車。岡山-博多間はそれまでの「月光1号」の筋に近いものですが、早く博多に着けるとはいえ、ちょっと使いにくいかな、というダイヤですね。
「月光」以外は大阪(新大阪)・京都発を維持しています。
それらのダイヤを見ていて気になったのが3点。
まず一つが「あかつき1号」に付けられた「個室」の表示。当時は20系車両で、ナロネ22が連結されていたようですね。1人用個室の当時の料金は、5,400円。客車3段式のB寝台、上・中段が1,100円の時代ですから、結構高額です。単純に比較はできないですが、国鉄運賃の2,101~2,140kmが5,430円ですから、現在の2万円強(本州3社の運賃、2,081~2,120kmで21,230円)というところでしょうか。
もう一つが、関西-九州の夜行列車でも営業をしている食堂車がたくさんあったこと。食堂車を連結していながら営業を休止していたのは581系の「明星」「月光」くらい。
いい時代ですよね。
最後の一つが、寝台車の表記。1968年10月はまだ等級制でしたが、1969年5月のモノクラス制移行でそれまでの1等寝台がA寝台、2等寝台がB寝台と改称されています。おそらくその時点からの表記になるんでしょうが、それまでの1等寝台A室と1972年のA寝台、1等寝台B室と1972年のB寝台が同じ記号なんですよね。
最初、「こんな列車にA寝台(旧1等寝台B室)が!?」と騙されました(笑)
ポイント④:変わる東京発ブルートレイン
時刻表からだけではわかりにくいのですが、この改正から「さくら」「みずほ」「下りあさかぜ2号・上りあさかぜ3号」が20系から14系寝台車と置き換わっています。
ピンクのページにある「寝台券」の案内に、
「寝台の広さは、おおよそ次の通りです。」とあり、「客車のB寝台 上段・中段・下段とも 巾52cm 長さ190cm」「新型客車のB寝台(東京-九州の特急) 上段・中段・下段とも 巾70cm 長さ190cm」と記載されています。
「はやぶさ」や「富士」、その他の「あさかぜ」は20系でしたから、一足早く「新型」になったということですね。
ちょっと意外だったのは、この頃もまだ「はやぶさ」が付属編成が長崎に行っていたということ。1975(昭和50)年3月改正で24系化されるまで(20系のうち)は、続いていたんですね。
逆に「みずほ」は14系でありながら14両全てが東京-熊本間を走行。「みずほ」といえば「東京-熊本・長崎」という思い込みがあっただけに意外でした。(1975年3月に「はやぶさ」の長崎編成が「みずほ」に振り替えられた形ですね。)
東京発ブルートレインの変化と言えば「出雲」「瀬戸」の特急格上げも大きなところ。
いずれも20系での登場となっています。
一方で、「紀伊」は急行のまま。関西への多層階建ての行先が整理され、東京-名古屋間を「銀河1号」との併結で走るようになりました。寝台特急「紀伊」の誕生は3年後の1975(昭和50)年3月改正になります。
ポイント⑤:速い新快速
この改正で日中の時間帯、おおむね15分間隔で新快速が走るようになりました。
1時間に1本が京都-姫路間、1~2本が草津-西明石間、2~1本が京都-西明石間という感じでしょうか。15分間隔というのはこの改正からのようです。
面白いのは1時間に1本ある姫路行。大阪を出ると三ノ宮、明石と止まって、次の停車駅は加古川。西明石は通過なんですよね。
今では考えられないですが、全列車とも神戸、新大阪も通過です。
今では全列車が停車している、尼崎、芦屋、神戸、西明石を通過して、大阪-姫路間の所要時間は75~78分。今の63分が、いかに速いかということですね。
新快速と言えば、この改正から天王寺-和歌山間にも走り始めました。途中の停車駅は鳳のみ。45~50分ほどで両駅を結んでいたようです。
JR京都・神戸線の新快速は現在の列車が圧勝ですが、阪和線の新快速は種別が廃止になっています。停車駅が大幅に増え、この区間で60分を切る列車は特急だけになっています。いかに阪和線の新快速が速かったか、ということですね。
ポイント⑥:もうひとつの新幹線連絡特急
この改正で新設された特急の一つが、大阪-鳥取・倉吉間を播但線経由で走る「はまかぜ」。
姫路駅での山陽新幹線連絡の使命を担っていたようですね。「はまかぜ1号」は新大阪発ですが、東京6:30発「ひかり51号」の姫路着との連絡をしています。鳥取着は13:39。
今なら東京6:51発の「のぞみ7号」が姫路着9:45。姫路10:22発の「スーパーはくと3号」に乗り換えると11:58には鳥取に到着します。37分の乗り換え時間というのはどう考えても接続を意識してないですから、姫路接続を意識的にダイヤ改正すれば、20分近くは短縮できるんでしょうね。
智頭急行経由の「スーパーはくと」。やっぱり速いです。
その他諸々
多くの点で、1970(昭和45)年改正の時刻表が手元にないので、今回の改正での変更なのかどうなのか、明確でないのが残念なところです。
全体を通して、面白いと感じたのは、昼行特急の臨時列車として夜間に走る列車にも、同じ名前が与えられていること。最近は、臨時でも夜行列車そのものが激減しているため違和感があるだけなのかもしれませんが、例えば次のようなものです。
特急「しおかぜ51号」高松 0:53発 宇和島 5:40着
特急「はくたか51号」上野 23:43発 富山 6:36着(←こんな時間帯なのに食堂車マークがあります)
特急「はくたか51号」富山 22:25発 上野 5:05着(←同じく)
特急「しなの51号」名古屋 23:50発 長野 5:09着
特急「やまびこ51号」上野 23:23発 盛岡 6:00着
特急「やまびこ52号」盛岡 23:30発 上野 6:00着
特急「あさま53号」上野 23:57発 長野 4:18着/関山 5:20(←運転日により区間延長)
特急「北斗51号」函館 1:55発 旭川 8:21着
特急「北斗52号」旭川 19:40発 函館 2:20着
特急「北海51号」函館 23:55発 札幌 5:15着
特急「北海51号」札幌 23:20発 函館 5:10着
等々。
急行列車にはよく見られたパターンですが、特急にもあったんですね。
「はくたか51号」が本当に食堂車を営業していたのか、気になるところです。時刻表の食堂車の案内ページには、
営業時間は、列車・連絡船の運転時間中です。(夜行列車は23時から翌朝6時まで、青函連絡船は23時から翌朝5時まで休業)
とありますから、この原則通りなら、上下とも35分くらいしか営業できなかったはず。。
ちなみに、在来線の食堂車の当時のメニューは、「朝定食(洋) \300・\350」「カレーライス \180」「スパゲッティ \200」「ビール(大) \200」その他色々。
直接関係ないですが目についたので。青函連絡船の「イカ刺定食 \300」「毛がにシュウマイ定食 \250」「鮭定食 \400」「ジンギスカン定食 \350」「帆立貝グラタン \350」。北海道らしくていいですね。(在来線食堂車にも郷土料理はあったようです)
というわけで、1972年3月改正の時刻表(時刻表復刻版 1972年3月号)を、関西人の目線から紹介してみました。