暗越奈良街道を歩く(大阪編 その1)
大阪と奈良とを最短で結ぶ街道として古くから人々が行き交った暗越奈良街道。その大阪府内の区間を歩いてみました。
高麗橋~玉造
土佐堀川から南へと分岐する東横堀川にかかる高麗橋。
その東詰に、里程元標跡があります。
明治9年、この地に里程元標が置かれ、西日本の主要道路の距離計算の起点となった場所で、それまで玉造にあったといわれる暗越奈良街道の起点が、それに合わせて高麗橋に移されました。
江戸時代までに暗越奈良街道を歩いた人々には縁のない場所ではありますが、現在の起点とされるところですので、ここからスタートです。
高麗橋東詰からやや北上。土佐堀通を東へと進み、京阪電鉄天満橋駅に近付いた「八軒家船着場跡」のあたりで南へと向きを変えます。
上町台地への上り勾配を歩いて、本町通、中央大通を越えてさらに南へ。
大阪市立南大江小学校の敷地に「太閤下水見学施設」というのがありましたが、令和3年4月26日から新型コロナウイルス感染症拡大防止のため地下施設見学を中止しているとの貼紙がありました。
直接、暗越奈良街道とは関係ありませんが、歴史的には気になるところです。
まっすぐ進むと長堀通に急坂で下る斜面の手前を左折。
玉造まで、長堀通のひとつ北側に並行する道を東へと歩きます。
谷町筋、上町筋を越えると、上町台地の東の縁に近付き、下り坂になります。大阪女学院大学のあたりで一旦軽い登りになりますが、傾向としては東へ向かっては下り。その勾配が無くなる頃、玉造に到着します。
玉造~深江
玉造筋を少しだけ南下し、長堀通の南側を東へと歩きます。長堀通に面した商店のアーケードの下を歩き、JR大阪環状線の高架をくぐってすぐに、二軒茶屋跡の碑があります。
暗越奈良街道の大阪側の起点とされている場所です。街道を行き交う旅行者のための茶屋があったことから付いた名前だとか。
このすぐ東側に、長堀通から南側へと分岐する道が暗越奈良街道です。その入口には道標が立っています。
高麗橋からここまでは、起点が変わっただけなので街道の面影はほぼ残っていないのですが、ここからは道も狭く、かつての街道を思わせる雰囲気もあります。とはいえ、古い家屋が残っている、というのはあまりないですけどね。
東から南東方向へと向きを変える長堀通が遮って、街道をまっすぐには歩けませんが、二つほどの交差点を渡って長堀通の反対側にある街道へと合流。
平野川を渡る玉津橋への途中に、暗越奈良街道の道標がありました。
写真では後ろに隠れている解説板には、「なお、高麗橋の道路元標は、市役所前を経て、昭和二七年梅田新道交差点に移された」とあります。梅田新道は国道1号線の終点、2号線の起点ですよね。
玉津橋の欄干には、大阪の中心部から東部にかけての古地図が描かれていて、楽しめます。玉津橋から暗峠は思いっきり略図ですけど。
玉津橋を渡ってすぐ、まっすぐ東へと延びる道路から、南へ右折するように、暗越奈良街道は続きます。分岐点には道標がありました。
国道308号線(長堀通)の北東側を並行して続く暗越奈良街道は、いい意味で昭和の雰囲気を残しています。
旧街道を歩くツアーでしょうか、数名の団体とすれ違いました。
東成警察署を過ぎ、今里筋を越えたところに、暗越奈良街道を示す道標があります。
この付近には、街道沿いの建物の壁を使って、詳しい解説が書かれた説明書きがいくつかあって、知識を得ることが出来ます。
「ようこそシルクロードへ」と書かれた看板があったりして、この地区の方々の暗越奈良街道への熱い思いが伝わってきます。
この、高麗橋から4.9kmの道標を過ぎて少し行くと、かなり築年数が古いと思われる建物が立て続けに残っている地区に出ます。今回の道程ではこの辺りが一番歴史を感じた所でしょうか。
このエリアをさらに歩くと、国道308号線に出ます。その出口にあたる場所には、この道標がありました。
「左 なら いせ道」とあるのがリアルです。文化3(1806)年に建てられたものだそうです。実際にはここから20mほど東側にあったものを、国道の拡幅工事の際にこの地に移設されたそうです。
ここから先は、しばらく国道を歩きます。
暗越奈良街道を歩く(大阪編 その2)に続きます。
今回は、「屋外での運動や散歩等、健康の維持に必要な外出」と、やや拡大解釈気味ではありますが、感染対策をしたうえで、他者との距離を十分に取って実施しました。